神藏美子

Profile

東京生まれ。

世田谷の畑がたくさん広がっていて、肥だめや、ブタを飼っている農家が残る桜丘で子供時代を過ごす。家には、チーコという通いのノラ猫がいて、赤ん坊の頃から、チーコが乳母のように世話をしてくれたので、自分と猫は特別の関係だと思って育った。

近所では、「いつも塀の上を、ヨシコちゃんが先頭で歩いていた」と言われるオテンバ娘であったが、桜丘保育園では内向的だった。絵が好きだったけれど、保育園のお絵描きの時間には、毎回、空、チューリップ、地面の絵しか描かなかった。あるいは、それも描けなかった。家では猫の絵など、いろいろ描いていたのに。集団は苦手だった。

笹原小学校に入学。3月生まれのせいもあって、他の子供たちよりトロイ子供だったが、親には「勉強しなさい」と言われたことはなかった。3年生くらいのとき、終業式で、通信簿(成績表)をもらった帰り道、友達と通信簿の見せ合いをして、みんな5や、4がたくさんあるので、びっくりした。わたしは、オール3に、2がちらほら。他の子の成績もそういうものだと思っていた。

4年生の時に、町田の団地に引っ越した。町田は、田舎だったのでトロかったヨシコちゃんも、忠生第四小学校では、トロさが目立たなくなった。

町田市立第三中学校に入学。校歌がない、新しい中学校だったが、途中で寺山修司作詞の校歌が出来た。「ともだちよ〜、ともだちよ〜、町田第三中学のと〜も〜だち〜よ〜」という校歌にしては、メロディーが暗い歌だった。

恵泉女学園高等学校に入学。礼拝を毎日行なうプロテスタントの学校で、聖書や、クリスチャンの友達に出会う。競争させない主義という校風は浮き世離れしていたが、兄(孝之)が受験指導をしてくれたおかげで、慶應義塾大学文学部国文学科に入学。大学2年生の時に、身分証明書(大学)の写真を撮ってもらったカメラクラブと出会い、写真を始めた。寺山修司の劇団「天井桟敷」の写真を撮り始めた。勉強しないまま過ごした国文学科、卒業論文は「寺山修司」だったが内容はおそまつ。

大学卒業後、勤めた広告代理店を1年間で辞めて、カメラマンを志してスタジオで働いたあと、アメリカへ写真家修業の旅。ロサンジェルスを経由して、ニューヨークに渡り、そのまま5年間くらい暮らした。ファッションカメラマンのアシスタントをしながら、I.C.P(インターナショナルセンターオブフォトグラフィー)や、PARSONSで写真やビデオアートを学ぶ。ファッションや広告写真の写真家をめざして渡米したが、80年代、ニューヨークでは、シンディー・シャーマンや、ロバート・メイプルソープなど、ファインアートの写真がアート界をにぎわせていた。自分の興味あるものを作品化することをめざすことにした。アメリカから帰国する前に、大学時代ホームステイしたことのある、コロラド州の田舎町ナチュリタを再訪。

帰国後、アメリカで見てきたファインアートの写真の世界とは全然違う、自流(時流ではなく)を標榜する荒木経惟氏に出会う。

1990年に出版した『Naturita』で日本写真協会新人賞を受賞。

著書に『たまゆら』(マガジンハウス)、『たまもの』(筑摩書房)